「情報発信室のメモ帳」とは
情報発信室のメモ帳は、情報発信の仕事をする中で見つけた小さな気づきや違和感を綴る連載です。
ブログやSNS、YouTubeの運用を通して考えたことを、メモのように残しています。
第一回「AIっぽい文章」選手権、開催
突然だが、「AIっぽい文章選手権」を開催するので参加してほしい。
さて、あなたは以下の文章を読んで、どれを「AIっぽい」と感じるだろうか。
エントリーNo.1:心の声を「」で3つほど並べたあと、その気持ちを説明して、少し前向きな結論に着地させる型
「今日も何も終わらなかった」
「こんなに頑張っているのに、どうして進まないんだろう」
「明日はもっとちゃんとしなきゃ」
やることに追われていると、できなかったことばかりが目につく。けれど、本当に何もできなかったのだろうか。振り返ってみれば、自分が思っている以上に、前へ進んでいるのかもしれない。
エントリーNo.2:一文を短く区切り、改行と余白で感情を演出する型
頑張っているはずなのに、
前に進んでいる気がしない。
やることは、たくさんある。
時間も、足りない。
それでも、
何もできていないように感じてしまう。
でも、本当にそうだろうか。
今日返した、一通のメール。
誰かにかけた、ひとこと。
目には見えなくても、
私たちは少しずつ前へ進んでいる。
大切なのは、
できなかったことを数えることではない。
今日できたことに、
そっと目を向けることなのかもしれない。
エントリーNo.3:「大切なのは、○○ではなく△△」で正解らしい教訓に着地する型
仕事をしていると、つい周囲と自分を比べてしまうことがある。自分より早く成果を出す人を見て、「もっと頑張らなければ」と焦ることもあるだろう。
しかし、大切なのは、誰かより早く進むことではない。昨日の自分よりも、ほんの少し前へ進めたかどうかだ。
成長とは、大きな成果を出すことだけを指すのではない。うまくいかなかった理由に気づくことも、誰かに助けを求めることも、確かな一歩である。
必要なのは、完璧な自分を目指すことではなく、今の自分を認めながら、自分らしい歩幅で進んでいくことなのかもしれない。
というわけで、以上はすべてAIが書いた文章である。
「どうせ全部AIだろう」と最初から見抜いていた人もいるかもしれないが、今回知りたかったのは正解できたかどうかではなく、これらの文章を読んだときに、どこかで「AIっぽい」と感じたかどうかである。
もちろん、ここで挙げた表現はAIだけが使うものではない。人が書いた文章にも普通に登場するし、短い文章や改行が効果的に使われる場面もある。それでも、日頃からAIに文章を提案してもらっていると、似た構成や言い回しを別の場所で見かけたときに、「もしかして、これもAIが書いたのだろうか」と気になるようになってしまった。そして、同じ感覚に陥っている人も多いのではないだろうか。
実際にAIが使われたのかは分からないが、一度そう思うと、その疑問が小さなノイズとして残り、肝心の内容に集中できなくなることがあるのだ。
もちろん、私自身もAIを使う。文章に誤字が無いかや、文章の流れに違和感はないかなど、文章の添削にAIを利用しているが、その時にAIが提示する「こういう言い回しにするといいですよ」という文章を見ていると、だんだんとAIの文章の書く「癖」に気づくようになったのだ。
そして、脳裏に刻まれた「AIの書く何とも言えない文章の癖」をそのまま出力したような形の文章を見かけると、「AIが書いた文章なのかな?」と思うようになってしまった。別にAIが書いたから悪いという気持ちは無いのだが、なんとなく「AIが書いたっぽい文章だな」という感覚が延々と付きまとい、文章の理解がおろそかになる。この現象は一体なんなのだろうか…。
「履歴書は手書きでは無くてはいけない!」という信条を持っているわけでは無いし、AIが書いたとしてもその人の考え方が反映されているならそれでいいとも思っているはずなのに、だ。
そしてこれは、もしかしたら皆さんにもある感覚なのではないだろうか?
「AIっぽさ」が気になる本当の理由
なぜAIを使うこと自体には抵抗がないのに、文章からAIの気配を感じると内容に集中できなくなるのだろうと、その感覚を言語化してみると、私が気になっているのは「AIを使ったかどうか」ではなく、そこに書かれている経験や考えが、本当に書き手本人から出てきたものなのか分からなくなることではないか、という仮説が生まれた。
たとえば、誰かが仕事で経験した失敗について書いていたとする。
私はその人が何に困り、なぜその判断をして、今はどう考えているのかを知りたくて記事を読むが、途中で見覚えのあるAIらしい表現が出てくると、書かれている内容まで「これは本人が考えたことなのだろうか、それともAIが話の流れに合わせて補ったものなのだろうか」と気になり始めるのだ。
もちろん、実際のところは書いた本人にしか、これは分からない。
私と同じように、本人の経験をAIに読みやすく整えてもらっただけかもしれないし、考えたことを箇条書きにして文章へまとめてもらったのかもしれない。しかし逆に、テーマを伝えて最初から最後まで書いてもらった可能性もあるわけで。
完成した文章だけを読んで、その過程を正確に判断することはできないのが、なにかもやもやして「内容に集中できない」理由なのではないだろうか。
「この文章はどこまで本人の言葉なのだろう」という疑問が生まれた時点で、それまで書き手に向けていた意識が、全く内容とは無関係な「文章を作った方法」へと移ってしまうのではないか。
それは例えば小説を読んでいる途中で、物語ではなく作者の使っている執筆ソフトが気になり始めるようなものであるのだが、普通なら執筆ソフトなど全く気にしないのに、なぜAIの影がちらつくとこうも強烈に気になってしまうのか。
もしかしたら執筆ソフトではなく、「この小説にはゴーストライターがいるのか?」と、気になってしまう感覚なのだろうかとも考えたが、それとも少し違う気がする。多分私は、面白い物語を読んで、それがゴーストライターが書いたものだとわかったとしても、作者のファンではなく物語のファンであれば、私自身はそこまで気にしない性分だと思う。
と、ここまで書いて、答えが分かった気がした。
私は文章を読んで、その文章の「執筆者」のファンになりたいのではないか。
文章の内容に惚れたいのではなく、執筆者自身に興味を持ちたい。だから「AIが書いた文章」というノイズに気づいた時点で、「どこまで作者の考えが反映された文章なのか?」から思考をスタートしなくてはならないことが辛い、というのが答えかもしれない。
シュレーディンガーの猫状態で、答えを知っているのは執筆者本人である時点で「この人自身のファンにはなれないかもしれない」と思うと、その先の文章を読む気が無くなってしまうのだ。
AI時代の情報発信に残しておきたいもの
情報発信を仕事にする立場として考えてみると、これは意外と無視できない問題だと思う。
とくに会社の情報発信は、正しい情報を分かりやすく伝えるためだけにあるわけではない。そこで働いている人が何を考え、どのようなことに悩み、何を面白いと感じているのかを知ってもらう役割もある。記事を読んだ人が、その内容に納得するだけでなく、「この文章を書いた人の話をもっと読んでみたい」「この人がいる会社に少し興味が湧いた」と思ってくれたなら、それは情報発信者としてかなりうれしいことだ。
一方で、だからといってAIを使わず、すべて自力で書くべきだとも思わない。履歴書はPCで書いて良いし、楽できるところは楽すべきである。
書きたいことはあるのにうまく文章にできないときは、AIに話を整理してもらうことで、言葉がまとまって読みやすい文章として発信することができるようになることもある。誤字を直してもらったり、分かりにくい部分を整えてもらったりすることも、伝えるための工夫の一つであろう。
ただ、AIが提案した文章をそのまま完成品にするのではなく、最後に一度「この文章に自分はいるだろうか」と読み返す必要はあるのかもしれないということを、情報発信者は覚えておくべきかもしれない。
「普段の自分なら使わない言葉が入っていないか」とか、「AI特有の短文謎のポエムになっていないか」とか、「大切なのは、○○ではなく△△」みたいな文章になっていないか、とか。文章として少しくらい不格好でも、その人にしか書けない経験や考えが残っているほうが、私は続きを読みたくなるし、そこにちょっとしたユーモアが入っているとなお嬉しい。
これは誰かに気をつけてほしいというより、AIも使いながら文章を書いている私自身が、これからも覚えておきたいことだ。
AIを使ったことを隠してほしいわけでも、AIらしい表現を見破りたいわけでもない。
私が読みたいのは、AIを使っていない文章ではなく、AIを使っていても書いた人が見える文章なのだと思う。
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